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現在の専横への注視

12・4
 高名な国文学者の、古事記、源氏物語の論を読んでいると、なによりも目につくのは、現在の共同観念になにも疑いをもっていないことだ。たとえばつぎのように。

 「作者が何をいいたかったのか。この作品をどうして書く気になったのか。そんなことを読み手が問題にし始めると、それを考えるにはいくつかの手続きを踏まなくてはならなくなってくる。」

 ここには、作者の隠れた意図を、作品の向こうに読み表そうという意識がみえている。「なにをいいたかったのか」とか「どうして書く気になったのか」など、当人さえわかりようのないことを知ろうとする。視覚的な像のその向こうに、内部のコトバがあり、それを知ろう、というのだろうか。

 言語作品は、つねに文字として書かれてあり、それは読むほかはない。図像も彫刻・建築も、そして風景さえも、文字作品を読むように、コトバに表現して知る、つまり読むほかに理解はない。人知はコトバとともにあるからだ。それしかない。読みのほかに、その向こうの心などというものは、コトバに読み表わしたうえに、心意像という想像をつみ重ねるのであり、屋上、屋をかさねる、やりすぎだ。そのことは、古典作品ではなく、現代文を読ませてみれば、いっそうはっきりする。

 源氏物語の読みを、現在あるままの構成にまかせて読むと、飛躍があって、わかりにくいから、書かれた順番に二つの系統に分けて読み、そののちに合成して理解する、というような古来の成立論論理が、定説のように遵守されている。そこでは、合理的に読みがなりたつ、というのが唯一無二の価値判断になっている。現在的な合理性とは、なんであるかが、ぜんぜん反省されていないのだ。成立順番論にしたがって、現にある作品を読むことが正しいかのように転倒されている。なんてこと!
 
 今あるとおりの巻立てにしたがって、そこに飛躍があろうと、どうしてそのまま読めないのか?どうして、今日の合理観にしたがって読み替えようとするのか。不合理にみえる展開のなかに、我らの合理とはちがう、べつな論理や、思いもよらぬ、他の時代の表現思想やらを、想定できないのものなのか。

 現在の合理というのは、成熟するという頑迷な進歩信奉だ。書き進めているうちに、より深く書き表せるようになる、というふうに。だから゜単純な観念性表現が未熟で、複雑な像表現のほうが成熟しているのだというふうな暗黙の了解ができる。コトバじたい、そのように時間運動でできていない。そのような理解は、コトバについてではなくて、思考することについての近代観念にすぎない。

 『古事記』の読みでも、あいかわらず、語釈中心で、文としてのコトバが読まれていない。そうしようと試みてさえいない。コトバは一語でも文なのであって、単語はコトバではなく、コトバによる観念でしかない、二義的なのだ。とくに文学作品は、そのことに敏感だから、とくに留意されなくてはならないはず。たとえば「化熊出川」という本文を誤りだとみて、「川」を「山」に読み変えるというのさえ、ほんとうにそれでいいのか、と疑がうこともできるのだということが想定されていない。熊は山棲み、と決めていいのか?その「熊」は、熊のことなのか。

 だいたい『古事記』のように、漢字をもちい、原則として漢文文体で書かれているものに、江戸期以来の理解のように、「訓み下す」というような問題が存在するのか?最初から最後まで、漢文としてそのまま観念的に眼で理解していくのではないのか。外国語をいちいち日本語に直してわかるというのは、今でも初歩の入り口でしかない。いちいち大和コトバに言い換えて、読んでいったなどとは、とうてい信じがたい理解法への現在理解だ。神話も歴史も、観念性において理解されるものだということがわかっていない。生活面におろしてきて、わかる、というふうには存在していないことは、今も昔もかわりはない。だれが「歴史」叙述について、生活のただなかで、コトバにだすものか。

 こういう学者論理には、折口の説を「詩人的発想」と片付けてかえりみない、自己への感受性の欠落が共通していて、それがかえって共同の注釈的合理観に拠りあつまる、徒党性をつくりあげていることに無知である。

 とどのつまり、現在の共同性を唯一無二に信奉する、現在至上イデオロギーについているのだ。過去を現在から整序してやまない、専横性。

 明日から、タイのクライミングに2週間ほどでかける。波打ち際の岩壁を登るのも、熱帯の地でのクライミングも、はじめての経験になるから、どんな心身の風景がひらけてくるのか、楽しみだ。生活は、戦争中でも、嵐のなかでも、平穏に続けられる。それを求めることじたいが、今や冒険になりつつある。

 我が家の小生き物たちも元気だ。

 
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# by aokmas | 2008-12-04 10:44 | 日本文学研究

知識の悦び・思考の快さ

11・25
 この前の、少女マンガ論を読んだ感想のつづき。知らなかった事柄や世界を、新たに知るのは、たしかにオモシロイ。しかし、知ることを知るほうが、もっと楽しい。自分をそのまま拡張するのではなく、自分が新たに更新されるのが体感されるから。自分が変わることの快楽。

 新しく知識をしいれたことじたいは、知らなかった世界を知るわけだから、それなりの楽しさがある。しかし、そこで新しく自分が変わることはない。ただ今までの自分という領域が、そのまま広がっただけだ。物知りになっただけ。それをなんとかしようとすると、たとえば、次のようなことに思いいたる。

 「源氏物語」などの古典を読むとき、すぐに「恋愛」論にしてしまう通俗風潮というのは、いったい、どこからきたのか。その源をしめすような言説にであう。たとえば、「女の性と少年愛」についてとりあげているところ。

 少女マンガは、たとえば少年愛の物語として、男性の「圧倒的な力としての性的欲望」によって、「すさまじいやり方で飼い慣らされ、性愛なしでは生きていけない存在、しかも常に相手の攻撃的な欲望を喚起する存在に仕立てあげられている」女性の、「受動の苦しみ」をえがくのだという。こういう論調は、私を刺激して、知ることを知る快楽へ起動させてくれる。

 この「受動の苦しみ」というのは、「女性の特質」なのではなくて、もともとヒトが、自己幻想するだけでなく、それを意識する、という対自性に発する。欲望を意識しだすという、心の本源からくる。だからもう、この「女性」観は、主体性を男から女に移しただけになっている。同じく差別的だ。受動の苦しみも、いつでも快楽に反転する。欲望は、ヒトにとって、苦・楽両面をもつ、幻想性としてあらわれるほかはない。

 欲望は、それを表現するメデイアを介して正負に現われる。「常に欲望を喚起する存在」というのは、この自己表現のメデイアのことで、古代には「財」の観念として現れた。男女の性別というのは、対なる幻想にとって、たがいにメデイアであるということだけを意味している。どちらにも主体はない。

 なのに、古代王は、女性メデイア・「姫財」を蓄蔵することで、権力自己を表現した。その遺制が現在にもおよんでいるので、すぐに現在的な「受動の苦しみ」を、過去に反映させて、自分で相手の欲望を喚起して、その中に安住したいという「恋愛」理念へ追いやられることになるのだろう。ようするに、現在を過去に反映させる、「現在性」の専横だ。

 ヒトの性的欲望も、自然力のもつ苦楽、というふうに幻想的に喚起される。性別に割り振られる自然力、というのも、共同幻想による。「自然な性欲」といったものも、共同幻想によって喚起されることは、ポルノ表現が我ら自身に如実に証明している。今や、男女の性別を楯にとって、善悪を互いに割り当てる共同幻想は、論者のいうとおり崩れつつある。

 科学自身が、生物的な性別と自己幻想のあいだを引き裂いたからだ、というよりも、「身体の生」というようなものは、ヒトにとっては無い、のがわかってきたから、というべきだろう。すべての「自然」は、ヒトにとって共同幻想であるほかはない。

 ひさしぶりに室内壁にいった。外岩とちがって、自己解放感がないのがいちばん苦しい。なにかの訓練のようになってしまう。岩に溶けていくようなイメージがもてないのだ。登れても、剥がされても。これからはしばらくスキーになるしかない、暖かくなるまで。岩の代わりに、雪が待っている。

 雪の日の紅葉

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# by aokmas | 2008-11-25 21:48 | 日本文学研究

コトバによる自己像表現

11・21
 ほんとうに、変わり目が鮮やかだ。今日から、いきなり雪日。積雪15センチで、吹雪模様になる。登校する子どもが、雪玉投げをしながらいくのが新鮮に映る。インフルエンザの予防注射やら、車の雪はねとか、一日あわただしいが、これもここでは祝祭的だ。

 ヒトは、コトバとともに生まれた。これは疑いない。以後、すべての自己表現は、コトバを基底にして、その上に見かけの、自己像を表現するメデイアが、歴史とともにつぎつぎに積み重ねられてきていることに、やっと気づいた。

 コトバは、まず「食う獣」というメデイア像に憑いて、はじめての自己像を、獣らに食われる「食い物」像に感知する。自分とは「食われるもの」だ。つぎに、食われる自分を包み守り養う、母なる場像に、自己像を感触するかのように表わす、といったぐあいに。

 やがて古代には、コトバは文字メディアをえて、養う母場像という心を、そこに産み捨てられた子だった自己、という意識にとりだす。捨て子の成人した王、というのが自己の観念像だ。ジュリアン・ジェインズのいう「二分心」は、これを意味している。(『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』)。心と意識と。

 古典古代には、自己像は文字観念をも離れて、自然理念にまで祀りあげられる。自己は神の裁きを受けた、罪ある自己という、マイナスの理念に観念される。オイディプスであり、わがスサノヲだ。

 コトバは、文字にとりだされ、文字は、役者身体にとりだされて中世劇の世界を表現するようになる。役者体は、さらにスクリーン映像にとりだされて、観客の自己意識を映すようになる。そしてとうとう、そのアナログの身体像は、電脳のデジタル記号に微分されて、アナログ的な自己という観念像を解体するようになって、現在のコンピューター画像にみられる自己映像にいたっている。という読みになろう。

 『私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち』(藤本由香里)」という、労作をよんで、原理的な思考を刺激された。それは苦手な少女マンガ世界をよく読みといている。
しかし「私」をその「居場所」に求めるという感知方法じたいをうたがっていないところに、よくあらわれているとおり、根底的ではない。だからどうしても、今日ふうの科学的人生論、「生物は環境に適応しなければならない」といったところにあいまいに落ちついていくのをさけられないでいる。「自己の解体や溶解」は、どんな今日の世界性をすすんで表わす契機だったのか。98年の思考だが、新しい世界像の表現は、世紀をまたいで、まだみあたない。

 今日のしごと 『なんどでも伊勢物語』、 『天才バカボンの論』 

 雪の日のはじまり
 
 
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# by aokmas | 2008-11-20 20:51 | 日本文学研究

国家の今 自己消失 外岩の感触 

11・14
 現在、「国家」の外部へでる知性は、科学的な外部観察知としてだけ許されている。文学表現でさえ、そこから自分自身の体験の中へ、なまの心へ、戻ってくるものは少ない。せいぜい、自己観察のセンチな表現なのだ。自己以前の、自分というのは、未開・原始的な心をさしている。場所の中にあるモノではなくて、食うモノそれじたいだった、「食物」という自分だとか、場所に溶けている未生の自分だとか、そういうコトバ遊びの比喩のようにしか扱われない、自分という心、の奥にわけいることなくして、国家の外にでることはできない。

 自己という、なにかについての「意識」ができた古代よりも、さらに古い人類史の「心」のありようにさかのぼって、考えてみることなしに、国家の外にでることはできない。

 しかし、国家が利権の名目だけとって、実質利権の吸いあげや棚おろしを、市町村というムラ的な観念場へ丸投げするのを目の当たりにすると、国家は、内側のムラのほうにも、外側の国際投資会社のほうにも、解体されつつあるようにおもえる。どちらも国家の内外に隠されてきたものが、そういう形で姿を国家の前に現しつつある。むろんどちらも、利権の新しい肩代わりであって、その無化ではないことはいうまでもない。地方分権は、グローバル化と表裏をなして、あたらしい権力形態をあらわしつつあるのかもしれない。

 横尾忠則が「両親の死」をいつまでも怖れて、なかなか観念的に納得することができなかった、という話をしていた。子どものとき、彼のように、自分も含めて、みんなそう思っていたはずだということを思いだした。その反動的な自己表現が自殺、首つりのイラストに向かっていったというようなことも言っていた。

 それは、どういうことなのか。親、とくに母親の死は、母なる場に溶けている子の自分にとって、そのまま自己消滅も意味するからだろう。しかしその「自己」抹消は、もともと「自己」なんてない、子ども的な自分には、母なる場に溶けていた自身への再生にもなるはずだ。ちようど、近松の「心中」劇が表現したように。そこでは、みんなと「共生」している幻想がえられる。自己の死は怖くなくなる。みんなに会えるからだし、みんなに溶けるからだ。

 『おそ松くん』は、6人兄弟だ。たぶん「三つ子の魂」の再表現として、そうなのだろう。三すくみの関係性、循環する自己観念を、それ以前の相で表現しなおす子どもたち。親たちも区別できない我が子どもという、一人の個体でも、一塊まりの「子ども」たちという、類的な者たちに表わしてある。親にとって、子は目前に実在するわが前世像だ。そこらは、自分の「自己」意識以前の、心たちが居て、わが正体を良くも悪くも、見せてくれる。三つ子の魂は変わらず、なのだ。昔の山岳部仲間とほんとうに久方ぶりで会って、わがこともふくめて、ますます実感した。年をとると、どんどん我が正体が露出してくるのだ、良くも悪しくも。

 暖かい外岩に、シーズン初めてでかけた。もうこれ以上はないという天気、とコンデイションで、湖も美しい。それにしては、さっぱり苦手が克服できていなかった。もっと馴れる必要がある。それでも手が出せなかったところにはじめて届いたし、なんとか乗っ越せた。また新しいルートにはじめ触れたうえに、ぶら下がりながらも、二度で終了点までいけたのは、うれしい。

 山の雪と麓の紅葉

 
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# by aokmas | 2008-11-14 21:42 | 日本文学研究

冬の魚とり・「シャクシャイン」・出し入れする袋

11・06
 いつのまにか、干支を6周して過ぎてしまった。もはや一日その日が生きられるのみのはずだが、ヒトはそうはいかない。老化はむずかしいのだ。にもかかわらず、過去は忘れ、未来は今と同じだと思って、無いことにするという、文化的自己幻想健忘症は、なんなのか。

 動物的現在生命性というのは、ヒトにとって「健全」なのか? 理念とおなじように、叶わぬ幻影、幻想の倒像ではないのか。ついこのあいだの、戦後や戦中、戦前もすっかり忘れ果てられている。正確に覚えておかなくてはならないし、正しく思い出す工夫をしなくてはならない。そのために考えつづけているはずだ。現在を生きるために、自戒。

 冬だというのに、名古屋のため池で、女の子の孫と魚掬いをする。昔から魚を獲るだけでなく、水槽に飼って眺めるのがだすいすきだった。それって、なんなのか。狩猟採集して「食物」を幻想する、ヒトの原生命性にねざすものではない。「食い食われる」自己表出ではなくて、「共に動く」共感性の魅力なんだろう。いわば「ペット」とおなじ、共生性にあるのか。そこにも根深いものがある。ところで獲物は、ちいさいハゼ数匹と、はじめて見る2センチほどのブルー・ギル一匹。新顔として飼うことになった。たのしい。

 湘南の岩は暖かかった。久しぶりの感触に、身体の伸びがいいような気がした。何度目かの「シャクシャイン」という名のルート。こんどは途中の一回休みで、登りきれた。やはりすこしずつでも、ウマクなるんだ、ホゥ…。 「伊豆の踊子」のほうは、左手側が手足とも全然置けない。となりの「ライオン・ヘッド」は、なんとか思いの外にこなせた。これもまた、ヤッパリね、という感じ。

 三題咄の終わりは、生命性は、外気を出入りさせるシャボン玉だという私的発見について。その考えのきっかけは、呼吸や栄養摂取など、生命原理の代謝が、どの地点からはじまるのか、といういつもの思考に、腸管のような「管」ではなくて、シャボンダマのような閉鎖的な「袋小路」こそがそうだ、と気づいたこと。浸透圧する膜があればいいわけだ。そうすれば、「管」のように入口・出口というた方向性ほもつ必要はない。せいぜい重力に従えばいいわけだから。

 むろんこんなことは、細胞膜の元になった、海の泡という考えかたを、三木成夫などのいう「ホヤ」のような一つの出入り口しかない生命体に延長すれば、すぐに皮膚じたいがそうだということに気づいたはずだった。外界を仕切って、「自己」という幻想を生成するのが生命だとすれば、そこには「穴」があればいいわけだ。遮断「膜」はただ、「穴」というタメをつくるだけの媒体にすぎない。
 
 生命性は、自然にたいする「穴」であることにつきるのだ。むろん「穴」じたいというのは、非在の幻想であって、それこそ「自己」の表現にほかならない。「ただのコトバ」だ。

 日本のハロウイン・こどもお化け

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# by aokmas | 2008-11-06 10:58 | 日本文学研究